嘴亭萌え狼らくご「水下着」(全文)


ひろし
「ああ、ひまだなあ、まったく。無職で、職探しとかも別にしてるわけじゃないから、やることが本っ当になんにもない。本当にひま。ひまが液体だとしたらば、俺という器はいま、ひまで表面張力みたいになってることだろうよ。これよりさらにひま水が注がれようものなら、そのときはいよいよもう決壊だ。ひまが決壊したら俺は一体どうなるんだろう。いっそそれをぼんやりと眺めるのも悪くないな。なんてったってひまだから。ああ、ひまだ。ふぁ、ふぁーあ」

   (大きなあくび)

ひろし
「おや待てよ。このあたりって、そう言えば、まさしおじさんちの近くじゃないか。うん、たしかにそうだ。こりゃあいいや。せっかくだからおじさんの所に顔を出していこう。もしかするとなんかもらえたりするかもしれないぞ。まああのおじさんのことだから、小遣いをくれるってことはないだろうけど、ほら、緑のカーテンとか言って、ゴーヤなんかをさ、いやおじさんがそんなの育ててるだなんて聞いたことないけど、でも絶対にないとは言い切れないぞ。いいなあ、ゴーヤ。持って帰ったら美代子も喜ぶだろ。そうすりゃ晩飯にゴーヤチャンプルーが登場して、ヒモの俺もちょっとは肩身の幅を狭く感じないで済む、って寸法だ。よし。おっ、あったぞ。ここだ」

   (ドアを激しく叩くひろし)

ひろし
「おじさん! ゴーヤください! まさしおじさん! ゴーヤください!」

おじ
「うるせえっ。誰だ、変な挨拶をする奴は。ごめんくださいだろうが。なんだゴーヤくださいってのは。要求がピンポイント過ぎるだろうが」

ひろし
「あっ、おじさん! ゴーヤください!」

おじ
「……ひろし、やっぱりお前か。そりゃあお前だよなあ」

ひろし
「おじさん! ゴーヤください!」

おじ
「もういいよそれは。ねえよ、ゴーヤ」

ひろし
「えー。緑のカーテンしてないのかよ。意識低いよ」

おじ
「逆になんでお前がそこまで確信をもって、俺が緑のカーテンでゴーヤ育ててると思ってるのか聞きてえよ。いい大人のくせに、なんでそんなにピュアなんだよ」

ひろし
「それはやっぱり働いていないからだろうなあ。資本主義社会の汚らわしさにさらされていないから、いつまでも心がきれいなままなんだよ」

おじ
「うるせえよ。働けよ。お前、相変わらずあの女の子に食わしてもらってんのか」

ひろし
「やめてくれよ、そんな言い方。こう見えてヒモにだっていろいろ悩みはあるんだぜ。おじさんが思ってるほど楽な稼業じゃねえんだよ。なんてったって女に愛想を尽かされたら、もうそこで生命線が断たれるんだからな。もちろん社会保険もないし、ヒモの互助会なんてものもない。毎日が綱渡りなんだぜ。だから女の機嫌を最優先に、でもあんまり下手に出過ぎるとナメられて、それはそれで男としての魅力がなくなって見限られるおそれがあるから、そこを絶妙の塩梅でだな……」

おじ
「働けよ!」

ひろし
「やだよ!」

おじ
「働けって!」

ひろし
「死んでもやだよ!」

おじ
「……お前すごいな! そこまで堂々としてりゃ、もうなんにも言えねえよ」

ひろし
「ありがとうおじさん。俺、行ける所まで行ってみるよ」

おじ
「宇宙一かっこいいヒモだな、お前。それで、どうする。ゴーヤはねえけど、どうせひまなんだろ。上がってくか」

ひろし
「うん。上がる上がる。別にゴーヤじゃなくてもいいし」

おじ
「絶対になんかもらう気かよ」

ひろし
「おじゃましまーす。ああ、久しぶりだけど変わんないねえ、おじさん家」

おじ
「男のやもめ暮しじゃあ、変わる理由もありゃしねえよ。まあ適当に座んな」

ひろし
「よっこいしょっと。ところでおじさんは今、仕事なにしてんの? まだあれ? 前にやってた、ほら、あの算数の問題を作るやつ……」

おじ
「あまりのある割り算の作家な。あれはもうやめた。採算が合わなくてな」

ひろし
「そうなんだ。商売を始めたとき、あんなに張り切ってた割に、ずいぶん割り切った考えをするんだな。それで、今はなにを?」

おじ
「今は心機一転、水下着を作って販売してる」

ひろし
「……なにを?」

おじ
「水下着」

ひろし
「みずしたぎ?」

おじ
「水下着」

ひろし
「……水下着ってなに?」

おじ
「お前、水下着知らないのか」

ひろし
「うん、たぶん知らない。生まれて初めて聞いた気がする。なに、有名?」

おじ
「そうか、知らないのか。まあ俺が考えたものだからな」

ひろし
「……またそういうパターンか。なんなんだよ、水下着って」

おじ
「はい。よくぞ聞いてくれました。すでに一部の好事家の間では話題の水下着。これがどういうものかと申しますと!」

ひろし
「わっ。急にテレビショッピングの人みたいになった」

おじ
「これからの季節、海へプールへ、遊びに繰り出す機会が増えますよね。今年の夏は彼氏ができて初めての夏だから、少しがんばって、ちょっぴり大胆なデザインの水着にしようかしら、なんて考えているそこのお嬢さんがた」

ひろし
「俺しかいねえけど」

おじ
「でもそんな頼りないビキニで決めて、不意の大波や、あるいはウォータースライダーの水流で、水着が脱げてしまったらどうしましょう」

ひろし
「それはまあ、こっちとしては大いに助かるけど、女の子は困るだろうなあ」

おじ
「そうですよね。そんなときに役立つのが水下着です。いったいどういうものかと申しますと、読んで字のごとく、水着の内側に着ける下着で水下着、ということでね。これを水着の下に忍ばせておけば、たとえかわいい水着がアクシデントで脱げてしまっても、あなたの大事な部分を水下着がお守りします。安心、安全の水下着。いちど着けたらもう、これなしでビキニなんて不安になっちゃいます。……というよりもね、お嬢さんがた」

ひろし
「俺しかいねえけど」

おじ
「いいですか、これはおじさんが水下着で食べてるから言うんじゃないですよ。古い時代の人間が、老婆心から言うんですけどね、いまどきのお嬢さんがたの水着はあんまりにもはしたないと思いますよ。だって普段の服の下に着けてる下着、つまりブラジャーとショーツよりも、お嬢さんがたのビキニと来たら布の表面積が小さかったりするじゃあないですか。あなたがた、日常生活で知らないおじさんに下着を見せてくれと言われたら、叫び声をあげるでしょう」

ひろし
「俺が本当にお嬢さんだったらまさに今ここで叫んでると思うよ」

おじ
「だのに! だのに海やプールでは下着以上の恰好で堂々とはしゃぐ!」

ひろし
「おじさん、あんまりエキサイトするなよ。声が大きいよ」

おじ
「おじさんはそこがどうしても納得いかない。だからこれ。水下着。お嬢さんがたが水着の下に水下着を着けてくれることによって、つまり裸と水着の間にもう一枚挟むことによって、おじさんの中で、水着に対しての義憤が一応の解決を見るんだよ。下着がわりの水下着のおかげで、水着は下着の上のブラウスの一種として捉えられるんだ。だから頼むよ……。水下着、着てくれよ……」

ひろし
「最後とうとう頼んできた……」

おじ
「(口調を戻し)というな、そういうものだ。この水下着ってのは」

ひろし
「な、なるほど」

おじ
「いい目の付け所だろ」

ひろし
「……儲かってんの?」

おじ
「まあ引きはけっこうある。しかし、いかんせん完全手づくりで、俺がひとりでやってるからな。ぜんぜん生産が追いつかなくて、今は二年待ちだ」

ひろし
「すごいじゃないか。やったな、おじさん。とうとう鉱脈を掘り当てたな。やー、よかった。おじさん、いい年してまじめに働かないから心配してたんだぜ」

おじ
「お前にだけは心配されたくねえよ」

ひろし
「いやあ安心した。しかしそんな大忙しだって知らないから、俺と来たらずいぶん邪魔しちゃったな。すまなかったな、おじさん。ささ、俺のことは気にせず作業に戻ってくれよ」

おじ
「そうか。それじゃあ遠慮なく」

   (その場でミシンを踏む動作をするおじさん)

おじ
「ミシンカタカタ、ミシンカタカタ」

ひろし
「えっ」

おじ
「ここのラインが大事でな、神経を使うんだよ」

   (縫った物を持ち上げ、チェックするしぐさ)

ひろし
「……おじさん?」

おじ
「よしっ。まさしライン、ばっちりだ」

ひろし
「まさしおじさん?」

おじ
「お前がミシンを踏めればなあ、手伝ってもらうんだが」

ひろし
「いやちょっと待てよおじさん、なんだよその、ミシンを踏んでるパントマイムは。どこの落語家かと思ったよ。そういうのはいいからさ、早く本当の作業をしろよ。この部屋にはミシンなんかないから、工房は別にあるんだろ」

おじ
「はあ? ねえよ、そんなもの。ここが工房だよ」

ひろし
「ここが? ……あっ、そうか。手縫いか。なるほどね。すごいな、ミシンも使わず、本当に完全手づくりなんだ。手縫いなら針と糸さえあればできるもんな」

おじ
「なにをわけのわかんねえことを言ってんだ。手縫いなんかするわけねえだろ、めんどくさい。さっきからミシン使ってやってるじゃねえか」

    (ふたたびミシンを踏む動作をするおじさん)

おじ
「ミシンカタカタ、ミシンカタカタ」

ひろし
「いやいやいや」

おじ
「よし、まさしラインばっちりだ」

ひろし
「まさしラインはどうでもいいよ! なんだよ、なんなんだよ、この話。とうとうおじさん、狂っちまったのか。ないミシンで、ない布を縫いやがって」

おじ
「……お、おい、ひろし。まさかお前、これが見えないのか?」

ひろし
「見え……?」

   (ひろし、しばし考えたのち、思い至る)

ひろし 「あ、なーるほど。それか。おじさん、そういうやつか。いわゆるひとつの、『裸の王様』のやつだな。あれだろ、ばかには見えないとか言うんだろ。そうだろ」

おじ
「いや、これは誰にも見えない」

ひろし
「おい! 言っちゃうのかよ! ばか仕立て屋!」

おじ
「ないとは言ってない。ここに水下着はある。ミシンもある。だけどそれは誰にも見えないんだ」

ひろし
「……とうとうか。そうか、おじさん、とうとうそこまで行っちまったか。まずいな。いったい誰がこんなおじさんの面倒を見るってんだよ……。遺産もなんにもないおじさんの介護なんて、してもなんのメリットも見出せねえよ……」

おじ
「ひろし」

ひろし
「なんだよ、言っとくけど俺はしないぞ。いや、まあおじさんにはガキの頃から世話になってるから、できれば恩返しはしたいと思うけど……」

おじ
「ひろし、よく聞け」

ひろし
「あれ? 意外と正気? まだ完全にはイカレてないのか……?」

おじ
「水下着はな、存在しない存在なんだ」

ひろし
「ほらー。やっぱ絶対無理だよー。もう専門資格とか持ってない一般人の手に負える状態じゃ絶対ないよ、これ。マジでやべえよー」

おじ
「はい、というわけでね、もしものときのための、水着の下の防御策として、世のお嬢さんがたから大好評をいただいている水下着なわけですけれども」

ひろし
「急にまたテレビショッピングの人になるしー」

おじ
「でもこの商品が本当に流行って、水着のときはこれを着けるのが当然だ、なんて風潮になりますと、おそらく世の男性がたから、弊社は大変な恨みを買うことと思います。そりゃそうでしょうね。せっかく女の子たちが、その異常さに気付かず、下着同然の恰好でこれまで目の前に現れてくれていたのが、水下着のせいで一段下がった感じ、ああこのすぐ下が裸ってわけじゃないんだ、というつまらなさが生じてしまうわけですから。しかしね、たとえばこう考えてみてはどうでしょう。彼女の水着が、女子更衣室から現れた姿を見たところ、こちらが期待していたほどの露出度ではなかったとします。非常に残念ですね。期待していた分、ショックも大きい。体型カバーとか言ってるんじゃないよ。普段の体型カバーの恰好では満足いかないからプールに誘ったんだろうがよ、と。……いやでも待てよ、この布面積大きめの水着の下には、確実にそれよりも小さい布面積の水下着があり、つまり目の前にいる彼女には、さらなる進化形態としての、水下着姿が存在するのだ──と」

ひろし
「な、なるほどっ。たしかにそう考えると夢がどんどん膨らんでくる。公共の衣装である水着に対し、脱衣という特殊状況に居合わせない限り見ることのできない水下着。つまり水下着とは、水着の下の防御策であると同時に、セクシーランジェリーでもあるということか。そしてその水下着姿がこのあと拝めるかどうかは、彼氏である俺のこれからの身の振り方次第だ! こいつは盛り上がってきたぜ」

おじ
「そうでしょう、そうでしょう。そしてそんなあなたに朗報です」

ひろし
「朗報? これ以上なんだってんだ、いったい」

おじ
「あのね、ここだけの話……、本当は水下着なんて存在しないんです」

ひろし
「えっ。……ということは?」

おじ
「そう。彼女さんは水着の下になにも着けていないのです。つまり彼女さんの水着姿は、すでにして、いまあなたが夢を抱いた水下着姿だ、ということです」

ひろし
「なんてこった! お、お前! なんてはしたない恰好ではしゃいでんだ! 他の男が見てるだろうが! す、すぐにラッシュガードを羽織りなさい! いや違う、車に戻ろう。すぐに車に戻ろう。最近の軽は驚くほど広いから大丈夫! 大丈夫だから! 前の座席の背もたれを倒せばフルフラットになるから! フルフラットになるから! ねっ、ねっ」

おじ
「ひろし、わかったか」

ひろし
「……はっ。俺はいったい」

おじ
「水下着とは、そういうものなんだ。実体はない。概念を売るんだ。水下着という概念が頭の中に生じることで、ただの水着姿がプリズムのように変化し、色とりどりの表情を見せるんだ。これが水下着なんだ」

   (ふたたびミシンを踏むしぐさを始めるおじさん)

おじ
「ミシンカタカタ。ミシンカタカタ」

ひろし
「おじさん……。すげえよ。マジですげえよ。尊敬するよ。ごめんな、俺もミシンが踏めりゃ、おじさんを手伝ってやれるんだけど」

おじ
「気持ちだけで十分だ。ま、地道にコツコツ生産していくさ」

ひろし
「ちなみに、一着作るのにどのくらいかかるんだ」

おじ
「裁断、縫製、プレス、検品、出荷、すべてひっくるめて丸四日ってとこだな。そんで俺、週休三日だから、つまり週に一着だな」

ひろし
「丁寧な仕事なんだな」

おじ
「一着十六万円するんだ。雑なことはできねえよ」

ひろし
「さすがプロフェッショナルだな。じゃあ、やっぱり俺、ここらへんでおいとまするよ。作業の邪魔しちゃ悪いからな」

おじ
「そうか。こちらこそ悪かったな、たいしたお構いもできなくて」

ひろし
「いや、いいんだ。なんか大事なことを教わった気がするし」

おじ
「そうだ、ひろし。緑のカーテンやってねえからゴーヤはやれねえけど、なんならこれ持ってくか。水下着。ほら」

   (水下着を投げるおじさん)

   (慌てて受け取るひろし)

ひろし
「えっ、いいのかよ、おじさん。二年待ちなんだろ」

おじ
「いいんだよ。二年も待つんだ、それが一週間延びようが大したことねえだろうよ。早く帰って、あの子に着せてせいぜい愉しみやがれってんだ。かー、ちくしょう。いいなあ、若者は。何回戦まで行くんだ、おい」

ひろし
「あ、ありがとう、おじさん」

おじ
「どうだよ、その水下着のまさしラインは」

ひろし
「決まってんだろ。まさしライン、ばっちりだよ」

おじ
「ははは。それじゃ、またな。またいつでも遊びに来いよ」

ひろし
「じゃあな、おじさん! 本当にこれ、ありがとう!」

   (おじさんのもとから去るひろし)

   (歩き出す)

ひろし
「ああ、本当にいいもんもらっちまったなあ。ゴーヤなんかよりよっぽどいいや。早速家に帰って、美代子に着せてやろ……」

   (笑みを浮かべていたのがみるみる真顔になる)

   (水下着を抱えていたはずの両手がさらりと下ろされる)

ひろし
「ふぁ、ふぁーあ」

   (大きなあくび)

ひろし
「そうかぁ。ひまが決壊すると、架空のおじさんと架空の同棲相手をでっちあげて、水下着なんてことを考えだすのか。それじゃあ俺はこの、俺の決壊したひま水でできたプールの監視員に就職して、このプールでは、水下着の着用を義務化することにしてやろう……」

(了)